約束 ――崩壊まで―― 18

 遊び好きで虚栄心の強い父は、感情にムラはあるものの、別に菊政のことが憎かった訳ではない。だから、よく遊園地などに連れて行ってくれたのだが、そんな時に菊政がにこにこと笑っていれば、それからしばらくは父の機嫌は悪くならないのである。

 未だに子供のような顔立ちの菊政だが、当時は女の子と間違われるほど可愛らしく、そんな菊政がにこにこしていれば、周囲の見ず知らずの他人は菊政を可愛がってくれた。可愛いお嬢さんですね、腰をかがめた見知らぬ他人が言う。いえ、息子なんですよ、と父が答えると相手は必ずこう言うのだ。

 女の子だと思いました、あんまり可愛いらしいから――と。

 その他人の驚嘆は父の虚栄心を満たしてくれた。満たされた父はしばらく母にも自分にも暴力を揮わない。

 だから、菊政は未だに、何かある度に、反射的に微笑んでしまうのだ。

 そんな緊張した生活に終止符が打たれる日がやってきた。

 両親の離婚。

 世間一般の常識では、幼い子供にとって夫婦の破局は好まざりし事といわれているが、菊政にとってそれは歓迎すべきことであった。別に父が嫌いだった訳ではない。ただ、自分を庇って傷つく母や、暴力という形でしか己を表現できなくなってしまった父が幼心に悲しかっただけで。
 家を出るとき、手をつないだ母がもっと早くこうすればよかったんだわ、と呟いた。家の前から一本目の電信柱の前まで来ると、母に知れぬようにこっそりと後ろを振り返った。父はどこか呆けたような、視線の定まらない虚ろな目で母と自分の姿を見ていた。きちんとスーツを着て四角いスーツケースを曳く母と、だらしなく薄汚れたTシャツにサンダル履きの父が対照的で、子供心に父が、なんだか哀れに思えたことを覚えている。

 その少し前に祖父が亡くなったそうだ。葬式にも、母は出ることを許されなかったという。結局、菊政は一度も祖父に会うことはなかった。

 両親の離婚に伴って、菊政は母方の苗字である「菊政」を名乗ることになった。小学校に上がる前の菊政には苗字などに大した意味も感じえなかったし、母が仕事に出る都合上、住居を変えたので、苗字が変わったことによって周囲から遠慮の無い好奇の目に晒されるなどということもなく、いたって平穏な暮しが始まった。

 だが、そんなおだやかな暮しも長くはつづかなかった。



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