約束 ――崩壊まで―― 19

 菊政が見たことのある写真に写っている母は、我が親ながら結構な美人だった。だから、一年と経たずに男が出来て、再婚するという話になった。母はその時ですらまだ二十六歳だった。「母を奪われる」などとは考えなかったから、別にそのこと自体はいい。問題はその再婚相手の男が子供嫌いであったことと、それならば仕方ないと母が息子を手放すことを決心したことだ。

 菊政は、母が自分を父から庇ってくれたのは、そこに愛情があったからだと信じていた。少なくとも母は自分を愛してくれているものだとばかり思っていた。

 だが。

母さんは僕を捨てたのだ。
 僕より大事なものがあるんだ。


 そう悟った瞬間、彼は自分と世界をつなぐ絆を見失った。

母さん以外、僕には何もないのに。
 もう、父さんもいないのに。



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 苦い記憶はそこで終わった。悪夢から覚めたような胸が痛くて苦しくて、菊政は毛布の隅をきつくきつく握り締めた。体が勝手に震えだしたのが滑稽で、菊政は微かに自嘲の苦笑を漏らした。ここしばらくは思い出さずにすんでいた、もう忘れたつもりでいたのになあ、と自分でもよく聞き取れないほど小さな声で呟く。

 自分でも何故そうするのかよくわからないままに、今まで人に見せないように押し隠し続けていた苛立ち。それを兵長にさらしてしまったのは、いったいなんでだろう? 隠しきれないと諦めてしまったのだろうか。

 三段ベッドの最下段、一人ぼっちの世界。本当はそんな筈ないのに耳鳴りがするほどの静寂の中、苦い記憶の残渣が、首筋あたりでさらさらいっている血に乗って、全身にひろがっていくよう気がした。足の先がなんだか冷たい。真夏だというのに、このまま凍え死んでしまうんじゃないかと思う。

 それならそれでいい。そうなればいい。もう、どうでもいい。

 捨て鉢になって菊政がまたゴロリと寝返りを打つと、何時からそこにいたのか、薄闇の中に、ゆらりと影のように立っている行の姿が視界に入ってきた。



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