約束 ――崩壊まで―― 20

「先輩?」
 驚いて体を起こそうとすると行は静かに首を横に振った。そのままでいい、目だけでそう語ると、低く囁くような声が、
「なんだかうなされていたみたいだったから、気になっただけだ。目がさめたならそれでいい」
 いつもと同じようにぶっきらぼうに言って、そのままぷいと背を向ける。
 しばらくの間、菊政はその背中をぼんやりと眺めていた。

 なんて優しくて、不器用な人なんだろう。

 誰にも見せた事のない苦笑や、困惑の表情をこの人に見せてしまったのは、この人も多分、おれと同じだと思ったから。そして、それでもこの人は、おれが見ない振りをして避けようとしていることと、その痛みと向き合って戦っているから。

 おれも、あんな風に変われるんだろうか。

 変わりたいと、思い始めている。
そう、自分の弱さを、苛立ちを、逃げるためや、やり過ごすためには、もう隠したくないと思い始めている。

 この人にも、必要とされないまでも、居た方がいいって、そう思ってもらえるようになりたい。助けたり癒したりなんてことはとても無理でも、せめてその話を聞いて受け取めることができるくらいに。「ともだち」だって、思ってもらえるくらいに…そうなりたい。

 そう思った瞬間、不意に視界が滲んで揺れて、薄闇に消えて行く行の背中を目で追いながら、ああ、おれは泣いてるんだと気がついた。そして、今はもう一人じゃないとそう思える世界に、流れる自分の血の音を聞いた。さっきより周りの音は聞こえてきているのに、確実にその音は――本当は微かなはずの血の流れる音は、さっきよりも大きくなっている気がする。足先も、もう冷たくない。

 しっかりしなきゃ、ちゃんとしなきゃ。

 滲んだ視界の中、毛布の隅から見つめた自分の手のひらは、もう高校生のときのそれとは違う。日に焼けた、男の手だった。



Back IndexNovel Next